「人間の翻訳より安い」
「機械が翻訳するから納期も短い」
このように説明されるMTPE翻訳(Machine Translation Post-Editing)ですが、発注者への値引きと、実際にポストエディットを行う翻訳者の報酬は同じ割合で下がっているわけではありません。
発注者が受ける値引きはわずかでも、翻訳者への支払いは、低いMTPE単価とWeighted wordsの組み合わせによって大幅に減ることがあります。
その結果、経験のある翻訳者ほど案件を引き受けられなくなり、限られた時間と予算の中で最低限の修正だけが行われる。安さを実現するために削られた負担が、誤訳、不自然な文章、社内修正、再翻訳という形で発注者へ戻ってきます。
この記事ではMTPE翻訳が広がった背景、料金が安くなる“からくり”と翻訳の品質が受ける影響を整理します。
MTPE翻訳とは?
MTPEはMachine Translation Post-Editingの略で、機械が作った翻訳を人間がチェックと修正を行う手法です。
MTPEの「機械翻訳」は、ChatGPTなどの生成AIによる翻訳ではなく、昔のGoogle翻訳のような翻訳エンジンを指します。
人間がゼロから訳す通常翻訳と比べて、費用が安く、納期も短いとされています。しかし、使用する機械翻訳エンジンや翻訳メモリ、プロジェクトの設定、どこまで修正するかという基準によって、納品される翻訳の品質が大きく変わります。
この記事で説明するのは「すべてのMTPE」ではありません
MTPEそのものが、必ず低品質になるという話ではありません。
国際規格のISO 18587:2017は、機械翻訳の出力に対する人間のフルポストエディット工程と、担当者に必要な能力を定めています。十分な予算、適切な翻訳者、明確な品質基準と確認工程があれば、MTPEを管理された翻訳方法として運用することは可能です。
一方、規格が示すのは理想的な工程です。実際の案件で、誰にいくら支払い、どれだけの時間を与え、どこまで修正させるかまではISOが保証しません。
私たちはメーカーで翻訳を発注する側と、翻訳会社から仕事を受ける翻訳者側の両方を経験してきました。その中には世界最大手クラスの翻訳会社が関わる案件もあります。
この記事で説明するのは、そこで実際に見てきた料金表、Weighted words、翻訳メモリ、作業指示と品質の関係です。個別企業のすべての案件へ一律に当てはめるのではなく、発注者から見えにくい構造の一例としてお読みください。
結論:MTPEの安さは、技術だけで実現されているわけではない
MTPEの料金が安くなる理由として、一般的には「機械が先に翻訳するため、人間の作業量が減る」と説明されます。
確かに、機械翻訳の出来が良く、人間の修正が少なくて済む原稿なら、技術による効率化が料金へ反映されます。
しかし、機械翻訳の出来が悪くても、MTPEの料金が安い場合があります。
その安さは、次の方法でも作れるからです。
- 翻訳者の単価を通常翻訳より低くする
- Weighted wordsで支払対象となる文字数・ワード数を減らす
- 修正対象を限定する
- 別担当者によるレビューを省く
- 短い納期を設定し、1日に処理させる量を増やす
つまり、技術で作業量が減ったから安い場合と、翻訳者に支払われない作業が増えたから安い場合があります。
発注者が確認すべきなのは、割引率ではありません。何が効率化され、何が削られた結果、その料金になったのかです。
MTPEの料金構造は、2000年代から続く価格競争の延長にある
MTPEの料金を理解するためには、機械翻訳だけでなく、それ以前から続いていた翻訳業界の価格競争を見る必要があります。
翻訳業界で供給過多と価格競争が進んだ
2000年代に入ると、インターネット、メール、CATツールの普及によって、翻訳会社と翻訳者は国境を越えて仕事を受発注しやすくなりました。
参入する翻訳会社と翻訳者が増えた一方、発注者から見れば、各社が提供する翻訳の違いは分かりにくいままです。
品質の違いが見えなければ、比較しやすいのは料金と納期です。見積もりで受注を競うようになり、現場では1文字・1ワード当たりの単価を0.5円刻みで下げる価格競争も起きました。
翻訳業界の情報を発信するJTFも2008年の時点で、大量生産型の翻訳が厳しい価格競争を招き、業界全体を疲弊させる問題を指摘しています。2010年には、IT翻訳で価格競争とパイの奪い合いが進み、翻訳会社と翻訳者の受注単価が下落していると説明していました。
つまり、熾烈なパイの奪い合いが起きていた業界で、MTPEは仕事を取りやすくするための“手法”として誕生しました。
MTPEが登場した当時の理想と、その後に起きた変化については、MTPE翻訳の理想と現実でも詳しく説明しています。
品質ではなく、安さで受注する競争になった
翻訳料金を下げる方法は、本来であれば、CATツール、翻訳メモリ、用語集、原稿の前処理などを使って無駄な作業を減らすことです。
しかし、業務工程の改善や人材の教育を行うよりも、外部の翻訳者へ支払う単価自体を下げる方が簡単です。
翻訳会社が受注価格を下げ、その負担をさらに安い翻訳会社やフリーランス翻訳者へ移す。再委託が重なるほど、最後に実作業を行う人へ残る予算は少なくなります。
MTPEでは、この構造にWeighted wordsが加わりました。
MTPE翻訳の核であるWeighted wordsとは?実際の原稿量より支払対象を少なくする仕組み
Weighted wordsとは、原稿の総文字数・総ワード数に、MTPEの翻訳メモリの一致率などに応じた係数を掛けて、料金計算に使う量を減らす仕組みです。
例えば、英語から日本語への翻訳で1万ワードの原稿があったとします。MTPEが使用する翻訳メモリとの一致率によって、料金の根拠となるワード数は次のように計算されます。
| TMの一致率 | 原稿のワード数 | 係数 | 支払対象のワード数 |
|---|---|---|---|
| 新規部分 | 2,000ワード | 65% | 1,300ワード |
| 低い一致 | 3,000ワード | 30% | 900ワード |
| 高い一致 | 3,000ワード | 20% | 600ワード |
| 完全一致・繰り返し | 2,000ワード | 0% | 0ワード |
| 合計 | 10,000ワード | ― | 2,800ワード |
翻訳者は1万ワードすべてを開いて確認しても、報酬は2,800ワード分しか支払われません。
Weighted words自体は、TMの一致率を素早く把握するための便利な計算方法です。問題は、一致率と人間の作業量が必ずしも一致しないことです。
しかし、支払い対象外の文章も確認しなければならない
翻訳メモリと100%一致していても、次の確認は必要です。
- 今回の文脈にも合っているか
- 製品名、数値、単位が変わっていないか
- 前後の文章とつながっているか
- 用語集やスタイルガイドが更新されていないか
- タグや書式に問題がないか
- 過去訳そのものに誤りがないか
支払対象が0%でも、確認責任まで0になるわけではありません。
無料で確認させる部分が増えるほど、翻訳者の実質的な時給は下がります。これが、MTPEで発生する“タダ働き”の一つです。
MTPE単価とWeighted wordsで報酬が2回減らされる
通常翻訳の単価を10円とした場合、1万ワードの報酬は10万円です。
MTPEでは「機械が翻訳しているから」という理由だけで、単価が7円に下げられたとします。さらに、Weighted wordsによって支払対象が全体の30%になった場合、計算は次のようになります。
1万ワード × 30% × 7円=2万1,000円
単価が10円→7円に下げられても、根拠となるワード数が1万ワードなら報酬は7万円になります。
しかし、Weighted wordsという不思議な計算をさらに加えることで、根拠となるワード数は3,000ワードに早変わり。つまり、翻訳者は1万ワード分の仕事をさせられながら、請求できるのは2万1,000円だけです。
MTPE翻訳の報酬は通常の70%ではなく、約20%が正しい考え方です。
| 比較対象 | 通常翻訳 | MTPE |
|---|---|---|
| 実際に確認する原稿量 | 1万ワード | 1万ワード |
| 支払われる単価 | 10円 | 7円 |
| 支払対象量 | 1万ワード | 3,000ワード |
| 翻訳者への報酬 | 10万円 | 2万1,000円 |
| 通常翻訳との比較 | 100% | 21% |
例えるなら、10時間働いても2時間分の報酬しかもらえないような世界です。
翻訳者側から見た単価と作業量の問題は、MTPE単価はいくらにすべきかで詳しく説明しています。
翻訳者は提示された条件で「取るか、去るか」を迫られる
翻訳会社とフリーランス翻訳者は、対等な立場で単価を決めているとは限りません。
特に大手翻訳会社の案件では、単価、Weighted wordsの係数、納期、品質基準があらかじめ決められ、翻訳者に残されている選択肢は「受ける」か「断る」かだけというケースがあります。
単価交渉をすれば、別の翻訳者に仕事が回ります。継続案件を失いたくなければ、提示された条件を受け入れるしかありません。
2026年のEuropean Language Industry Surveyでも、大手翻訳会社との取引における硬直的な条件、時間的な圧力、人間翻訳からポストエディットへの置き換えが、独立翻訳者の不満と職業価値の低下につながっていると報告されています。
時給換算ではコンビニやファストフードのアルバイトより安いMTPE翻訳
翻訳者の収入は、表示された文字単価だけでは判断できません。
実質時給は次の式で決まります。
実質時給=MTPEの報酬÷原稿確認・翻訳・修正・QAに掛かった時間
私たちが実際に確認したMTPE案件の中には、原稿と機械翻訳を照合し、必要な修正とQAを行った時間で割ると、コンビニ求人の時給を下回るものがありました。
専門知識、外国語能力、CATツール、調査、品質責任が必要な仕事でも、時給換算すれば一般的なアルバイトを下回る。その条件で高度なスキルを身に付けたプロ人材が長く働き続けることは困難です。
低いMTPE単価が品質に影響する仕組み
「翻訳者への報酬が低いことは、発注者には関係ない」と思うかもしれません。
しかし、報酬は翻訳の品質を決めます。
MTPEで一定の技量を持つミドル層が継続できなくなる
翻訳者は、駆け出しから経験を積み、専門知識、CATツールやQA技術を身に付けていきます。
ところが、一定の経験と技術を持っていても、その能力に見合う報酬が得られなければ、翻訳者は翻訳会社経由の仕事から離れます。
- 直接取引へ移る
- 高単価の専門分野へ移る
- 翻訳以外の仕事を増やす
- 業界そのものを離れる
特に影響を受けるのは、駆け出しを脱して、これから中核人材になるはずの層です。
2026年のEuropean Language Industry Surveyでは、フリーランス翻訳を長期的に持続可能と考える人が減り、活動終了を検討している人が17%に達しました。将来への自信低下が最も強かったのは、経験2~5年の層です。
「腕のある人が突然すべて消えた」という単純な話ではありません。しかし、価格競争によって、ミドル層が業界内で成長・定着しにくくなる構造は存在します。
プロの翻訳者は高い品質が求められる市場に残る
高度な専門知識や表現力を持つ翻訳者の需要までなくなるわけではありません。
顧客を重視する高級ブランド、売り上げに直結するマーケティング、誤訳や不自然な表現による損失が致命的な契約、特許、医療、適時開示などの分野では、依然として人間の判断と高い品質が求められます。
上位の翻訳者は、価格だけで選ぶ市場から離れ、品質に費用を払う発注者、専門性を理解する翻訳会社、メーカーとの直接取引などへ移ります。
市場は次のように二極化していきます。
- 大量・低価格・MTPE中心の翻訳
- 少量でも高品質・高専門性を求める人間中心の翻訳
低価格案件ほど未経験者が集まる
MTPEの低価格案件を、すべて経験の浅い翻訳者が行っているとは限りません。収入の事情や取引関係から、経験者が引き受けることもあります。
しかし、時給換算で採算が合わない案件を、高スキル人材が何年も継続することは困難です。
そのため、MTPE案件には実績を作りたい未経験者や、これから翻訳の世界に入ろうとしている人が流れやすくなります。実際にMTPEをやっているのは、十分な知識と経験がない新人がほとんどです。
報酬が下がった分だけ品質も落ちる
MTPEの受け皿となる初心者層の目的は翻訳の経験を積むことです。しかし同時に、MTPEの僅かな報酬で生活する必要もあります。安い単価の仕事で食べていくためには、「短時間でいかに量をこなすか」が重要です。
1時間で3~4倍の仕事をして実質単価を上げる戦略が求められますが、そのやり方では次の問題が発生します。
- 1つの依頼に掛けられる時間が減る
- 詳細な調査ができない
- 読みやすさにこだわっている時間がない
- 用語・スタイルの確認を省略する
その結果、「ビジネスで使える完成度の高い翻訳」だと思っていたものが、実際には、目立つ間違いだけを手直しした訳文にとどまるケースが多いです。
つまり、このようなMTPEの料金は技術によって安くなったわけではなく、翻訳の技量が足りない安い人材を使うことで実現されています。
MTPEで発注者が得るもの・失うもの
MTPEの価値は、単純に「安いか、高いか」では判断できません。
| 発注者が得られる可能性があるもの | 発注者が失う可能性があるもの |
|---|---|
| 翻訳費用を抑えられる | 社内修正を含めた総コストが増える |
| 大量の文章を短期間に処理できる | 経験者が担当する可能性が下がる |
| 翻訳作業を他人に任せられる | 翻訳のチェックに時間を取られる |
| ー | 誤訳、訳抜け、用語不統一が含まれる |
| ー | 翻訳資産の所有権・管理権 |
MTPEを選ぶべきかどうかは、得られる効果と、失敗した時に被る損失を判断する必要があります。
MTPE翻訳を使ってもいい文書・避けた方がよい文書
MTPEの実態を考えると、内容把握や失敗してもそれほどの損失が発生しない翻訳には使えます。しかし、会社の売上や損失に関わる文書の場合、慎重な判断が必要です。
MTPEを検討できる文書
- 外国語資料の下読み
- 誤訳があっても重大な判断に影響しない参考資料
- 表現が定型化された大量の文書
- 顧客の目に触れない低リスク文書
- サンプルテストで機械翻訳との相性を確認できた文書
- ライトポストエディットで十分だと発注者が理解している文書
MTPEを慎重に判断すべき文書
- Webサイト、カタログ、営業資料
- 高級ブランドや製品イメージに関わる文章
- 取扱説明書、技術仕様書
- 契約書、特許、適時開示資料
- 医療、安全、健康に関わる文書
- 未発表製品や営業秘密を含む原稿
- 用語・表現をファイル間で厳密に統一する必要がある案件
MTPEの見積もりで問うべき8つの質問
見積書にMTPE、機械翻訳、ポストエディットと書かれていたら、担当者に次の点を確認してください。
- 原稿の総文字数・総ワード数はいくつか
- Weighted wordsはいくつで、どの係数を使ったか
- クライアントへの料金と翻訳者への料金で、同じ解析結果と係数表を使うか
- 何を修正し、何を修正しないか
- ポストエディットを行う人の翻訳経験はどのぐらいか
- 別担当者によるレビュー・QAが含まれるか
- 原稿と訳文がMTPEの改善用データに使われるのか
- 品質が基準に届かなかった場合、誰の費用で修正するか
これらの質問に具体的な回答がない場合、「MTPEだから安い」という説明だけで発注するのは考えものです。
翻訳会社全体の体制を確認するときは、翻訳会社選びで見るべき判断基準と翻訳品質のチェックポイントも参考にしてください。
コストを下げる方法はMTPEだけではない
MTPE翻訳の最大のメリットは安さですが、実は翻訳コストを抑える方法は他にもあります。
人間の翻訳者がCATツールを使い、あなた専用の翻訳メモリを蓄積・運用することで、コストを抑えながら納期も早めることもできます。
この方法のもう一つのメリットは品質です。プロの翻訳者が文章の意味とあなたの目的を考えた上で最適な文章を作りますので、翻訳の効果が違います。ユーザーに支持される取扱説明書、商品の売り上げを伸ばす英語版ホームページなど、本来の目的を実現する翻訳です。
CATツールと翻訳メモリを使ったコスト削減については、CATツールが翻訳にもたらすメリットと自社専用の翻訳メモリを運用する方法をご覧ください。
Intenciaが人間の翻訳と社内完結を重視する理由
Intenciaは、翻訳業界では一般的な再委託システムを採用していません。
翻訳、チェック、DTPを社内で完結し、CATツール、翻訳メモリ、用語集、正規表現、Xbenchなどを使って、品質を保ちながら無駄な作業を減らします。
機械に翻訳させて人間の報酬を削るのではなく、人間が高い品質を作り、技術で反復作業とミスを減らす考え方です。
翻訳料金を一時的に下げることよりも、翻訳をあなたの資産として蓄積し、次回以降の品質、納期、コストに還元することを重視します。
MTPEの見積書を受け取ったものの、料金の計算方法や納品品質が分からない場合は、条件を一緒に整理します。見積金額だけでは見えない作業範囲、Weighted words、品質とデータ管理のリスクを確認した上で、人手翻訳とどちらが合理的かを判断できます。
まとめ:安さの負担を誰が背負っているかを見る
MTPEは、条件が合えば有効な翻訳方法です。
しかし、安さがすべて技術的な効率化から生まれているとは限りません。
翻訳業界の価格競争、低いMTPE単価、Weighted words、翻訳者と翻訳会社の力関係が複雑に組み合わさることで、翻訳者への実質報酬は大きく減ります。
経験者が継続できない条件になれば、限られた時間で最低限の修正しかできない未経験者へ仕事が流れます。その結果を受け取るのは発注者です。
MTPEの見積もりを比べるときは、表示された割引率だけで判断しないでください。
- 誰が翻訳を直すのか
- どれだけの時間と報酬が与えられているか
- Weighted wordsで何が支払対象から外れているか
- どこまで品質を確認するのか
この4点が分かって初めて、そのMTPE料金が技術による合理的な値引きなのか、品質と責任を削った安さなのかを判断できます。













